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あんきらについて、「可愛さに憧れる可愛さ」:CD『あんきら!?狂騒曲』を記念して – miusow’s diary / ロマン主義アニメ研究会

 今回CDになって、2番以降の歌詞が明らかになりました。

いつもキラキラだけど、ホントは繊細なとこも

照れ屋さんだけど、ホントはやさしいとこも

知ってるし

大好きだにぃ

(「あんきら!?狂騒曲」)

1番だけしか公開されていない段階では「なんだこの歌は!(とにかく楽しい歌ではあるけど)」という感想で終わりそうでしたが、このような2番が隠されていたんですね。

とはいえ、1番でも既に、「やっぱり一緒がいいよね?」「うん、いいんじゃない?」(この杏の答え方)という、少し抑制された表現が登場しており、ここから何かを感じ取っていた人たちも多かったのではないかと思います。

 

この機会に、「あんきら」というものについて、いろいろ推察(妄想)を重ねたことを、記してみたいと思います。特に今回は、二人の、「可愛さ」というものへの距離の取り方、その違いを軸にしてみようと思います。

 

◆小さいこと、子どもであること

双葉杏は可愛い。小さくて可愛い。妖精。

 

私はこの作品(デレステ及びアニメ *1)で、あんきらと、小さいアイドルたちが好きだが、

 

──つまり、それくらいの漠然とした楽しみ方をしていて、

特に、誰々Pなんです!などと名乗れるような、集中したのめり込み方をしていないのだけれども、

・・・だからその分、ガシャを引いたときの、自分的なヒットの確率は結構高いので(要するに、あんきら+小さいアイドルのいずれか(の何か)が出て来れば大喜びするから)、そこそこで楽しめているんだけど──、

 

まあ要するにあんきら好きも、「小さいアイドル好き」の延長であろうし、くだけた言い方をすれば、私がロリコンだからだろうと思います・・・。

 

 ◆「小さい」きらり

 きらりんは大きいじゃないか、と思われるかもしれないけれども、必ずしもそうではなくて、というのも、

きらりんは確かに小さくない、大きいアイドルですけれども、雰囲気も、中身も、多分に「子ども」の要素を持っている。

 

あんきらの良さは、まず見た目という点では、まちがいなく、杏が子どもできらりんが母親のような関係に見えるところで、二人が手をつないで歩いている様子(イラストなど)は、本当にそれだけでキュンとしてしまうのだけれども、それは、そのような親子的な微笑ましさがあるからだ。

 

そして、やっぱりきらりんは、そういう外面的・表面的なレベルで言えば、確かに保護者役のようなものを買って出ているところがあって(「甘やかしている」感じもあるが)、杏の自宅マンションにまで行って寝坊している杏を起こそうとしたり(その様子を見ていたい)、サボタージュする杏を探して追いかけたり、レストランであんずの口の周りに付いたケチャップを拭いてあげたり、といったような場面が見られる。

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(『アニメ』エンディング[この絵を飾りたい])

   

だけれども、それは外面的・役割的な振る舞いであって、まさにそのような外見に基づく関係、つまり両者の外見から暗黙のうちに社会的に期待されがちな役割に従っての振舞いにすぎない。*2

 

それに対して、そのような外面的な規定を超えた、二人の内面的なつながり方においては、この二人の関係は、必ずしも保護者・子どもというようなものではなく、どちらがどちらであるとも言えないような関係、むしろ場合によっては逆に、杏の方が大人びていて、きらりんの子供っぽさをわかった上で受け止めてあげている、というような側面がある。

 このようなあんきら関係の特質について、今回は、それぞれの「可愛さ」への距離の置き方の相違を手掛かりに、考えてみることにする。

 

◆きらりにとっての「可愛さ」

 きらりんは、そのままでは自分は可愛くないはずだと思っていて、いかに自分自身を可愛く「デコる」かということに熱心である。かわいさというものへの憧れ、幻想、ファンタジーを信じていて、人からもそう言われたいし、自分でも自分のことをそう思いたい。 

(確かに、可愛いもの好きではあっても「自分がなりたいとは思ってなかった」とPに語っている場面があるが(R特訓エピソード)、これを文字どおり受け取っていいのかどうか。オーディション直後に杏に語っているところによると、「きれいな衣装、すてきな歌、キラキラのステージ」の「アイドルにな」ることは「憧れ、だった」(「ストーリーコミュ」第10話)。)

 

また、先日のイベントで獲得されるSRのコミュも参照しよう。

「きらりん、きゃわゆい女の子になれたかなぁ?

・・・

きらりんは、背がちょっぴり高くて……

普通の女の子みたいにできないことは、いろいろあって。

でも、きゃわゆくなりたくて……。」

(「[With Love]諸星きらりの特訓エピソード」)

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◆杏にとっての「可愛さ」

その反対に、杏は、自分が生まれつきすでに可愛いということがわかっている。

 

小さい頃から、杏ちゃんは可愛い可愛いと言われて育ったから、アイドルならやれるかな〜と思った、などと、淡々と語っている。(こういうところがまたいい。「双葉杏とのメモリアル4」)

あるいは、自分は「誰もが認める美少女妖精キャラ」なのだから、努力する必要はない、とも言っている。(「双葉杏とのメモリアル2」)

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杏は自分がそのままで可愛いということを自覚していて、それを必要に応じて活用しつつ、普段はよれよれのTシャツを着て過ごしているのである。

 つまり、可愛さというものに客観的な距離をとった上で、必要に応じてそれを利用して(楽して)稼ごうとしている。自分の可愛さに対して冷静で、他人事のようである。

 

◆きらり→杏(1):「可愛さ」

つまり杏にとって可愛さは、デフォルトの状態、当たり前の状態であって、憧れるべき理想ではないのはもちろんのこと、本人も見たところそれを重視していないし、他人事のようである。親から受け継いだ資産の一環として、収入源として使えればいいという程度のものである。 

その逆に、きらりにとって可愛さとは、目指すべき理想であり、絶えずそのために実践することが彼女が生きるということですらある。

したがって「初めから可愛い杏」は、その意味できらりにとっては憧れでもあり、尊い存在でもあるのだろう。

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 (「シンデレラガールズ劇場」)

 

杏の髪を結ってあげている「一コマ劇場」がある。 

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 杏は無関心、というより、結ってもらわなくていいという感じだが、きらりんがそうしたがっている様子である。ここには、可愛い杏をもっとかわいくしてあげたい、という気持ちが読み取れる。 また、ゲームに没頭する杏の姿からは、彼女の自分の可愛さへの価値の置き方、距離感が読み取れる。 

 

◆杏の目指すもの?

では、杏は何を目指しているのか。

特に何も目指していない、ということになるのかもしれない。

 

まず、小さいのだから大きくなりたいと思っているのではないか、ということが考えられるかもしれない。例えば「ルーム」にいる杏が、「コドモっぽい衣装だけど…飴くれるなら、ま、いっか♪」と話すことがある。ここから「子どもっぽい衣装」が、やっぱり嫌だ、大人っぽい衣装を着たい、という気持ちを読み取ることもできなくもない。

(実際、身長だけでなく実際に小さい年齢のアイドルは、佐々木千枝のように、大人のアイドルになりたいな、というような憧れを口にすることがある。可愛い。)

 

しかしながら、杏は「飴をくれるならまあいいか」と言っており、それほど嫌なわけでもなさそうである。

というよりも、子供らしくて可愛い外見というものが、飴玉=収入を生むのであれば、利用したらいいじゃないか、というような、やはり前述した通り、杏らしい冷静で他人事のような「可愛さへの距離」がうかがえるのではないだろうか。

 

むしろこうだろう。杏の目指すところとは、何かを目指すということをしない、ということ、言い換えれば、何か特定の目的を目指さないという生き方、目的に拘束されない生き方なのではないか。そこに自由があり、戯れること、楽しさがある。このことを杏は知っている。──こうした杏の世界観については、「スローライフ・ファンタジー」においてよく表現されており、別途記したことがある。

 

(要するに、杏は大人である、というより、大人すらも超えてしまっている。大人になりたいという気持ちは、子どもが持つものである。大人などというものに、無邪気に価値を見いだすことも、もはやできないのである。)

 

◆杏→きらり:「可愛さに憧れることのできる可愛さ」

では、杏はきらりの何に惹かれているのか。

「やっぱり一緒がいいよね?」「うん、いいんじゃない?」という杏は、なぜそう答えるのか。

 

もちろん色々あると思うが、一つには、思うに、少し屈折しているが、「可愛さに憧れることのできる可愛さ」があるのではないか。

 

生まれつきカワイイカワイイと言われて育った杏にとって、可愛さは憧れでもなんでもなくただの事実であって、選択の余地なく親から引き継いだ資産のようなものにすぎない。したがって、「かわいくない私が、かわいくなる」というまさに「シンデレラストーリー」が、あらかじめ絶たれているのである。*3

 

そして、そんな「かわいくなりたい」シンデレラストーリーを素朴に信じ、大切にしている女の子は、本人の自覚とは裏腹に、「すでに十分かわいい」。

 

だから、まだそういうシンデレラの階段をのぼる楽しみが残されているきらりんのことが、かえって杏にとっては一種の憧れの対象でもあり、その夢中になっている姿はほほえましくもあり、また、子どものようでかわいくも思えるのである。

  

◆きらり→杏(2):見守ってくれること

そして、きらりが杏に惹かれる理由が、ここでもう一つ見つかる。

すなわち、そのように杏が微笑ましく見守る気持ち、である。

小さな杏から、微笑ましい眼差しで見守られると、きらりんは、その杏よりももっと小さくなった気持ちになるであろう。

自分を子どものように可愛がってくれる人がいるということ。これはきらりんにとってとても嬉しいことなのではないだろうか。

再度引用。

いつもキラキラだけど、ホントは繊細なとこも

照れ屋さんだけど、ホントはやさしいとこも

知ってるし

大好きだにぃ

(「あんきら!?狂騒曲」)

 

要するに、あんきらという組み合わせの絶妙さというのは、いわゆるギャップの良さというものが、あんず・きらりのそれぞれにおいて見られるのみならず、相互の関係においてもそれが入れ子状に働くことによって、何重ものギャップがそこに見られる事態となっている。その結果、なんとも言えない、中毒性すらあるような絶妙な味わいが、そこに生まれているのである。

 

 

 

*1:私のこの作品の体験は、デレステとアニメ、あとは関連CD、コミックス等だけです。 

*2:

おそらくきらりんは、普通に考えると、成長期を境に急に背が伸びたものと思われるが、要するにそれくらいの年齢からつねに暗黙のうちに、周りから、その身長に応じた振る舞いを求められてきたに違いない。知らない人からは実際よりも学年が上に見られてしまっていたであろうし、年齢を知っているはずの友人・教師なども、無意識的に、頭が一つも二つも飛び抜けている彼女のことを、お姉さんであるというように錯覚してしまうようなことがあったのではないだろうか。──そのようにしていつも暗黙裡に期待される振る舞いのコードは、彼女の、少なくとも表面的な振る舞いを規定してしまうのである。

逆に杏は実際よりも低い年齢に見られてきて、そのような振る舞いを期待されてきたのではないだろうか。飴玉が好きというのは、単に好みかもしれないが、小さい子どもに飴玉をあげれば喜ぶだろうという安易な考えから、周りの人がよく飴玉をくれたのではないだろうか。[子供らしいわがままを言い、飴玉をあげると喜んで素直になる、という振る舞い方を周りの人は杏に期待し、その通りになると周りの人は安心する。]

*3:正確には、自分はかわいくないと思い込んでいた私が、実は可愛かったと気がつくまでのストーリー、と言うべきだろう。

 

Source: マンガ

 

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