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何か少しでも頼りになりそうなもの:ライブ、蘭子語、ロバ祭り – miusow’s diary / ロマン主義アニメ研究会

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まんがタイムきららフェスタ」に今年も行く。

 

この集まりでは、最後、みんなで声を合わせて、

 

まんがたいむ~~・・・[←出演者の方々]

きららーーー!! [←全員で]

と、叫ぶ。

 

「きらら」というワードをみんなで叫ぶという体験。

もちろん、いろいろなコーナーや歌が楽しみであるというのもあるのだけれども、私の場合かなりの割合で、最後のこれがやりたいがために行くのではないか、という気もしてきた。こういうのが好きなんだ、ということを、いっせいに盛大に「告白」する(=信仰告白)。なかなか日常生活ではできない。

 

なるほど、これは、まるで何か得体の知れない、宗教的な集まりのようだと、部外者には思われるかもしれない。

(昨年、隣で同じ日に行われていたジャニーズ系のコンサートの参加者が、「この列なに?」みたいな感じで通り過ぎて行っていたのを思い出す。)

 

しかし、これに限った事ではなく、いわゆる宗教的と言いうるような振る舞いは、こうした「現代視覚文化」コンテンツ界隈のファン行動では、しばしば見られるものである。(例えば、宗教的な比喩、語彙の使用。尊い、女神、天使、聖地、・・・。)

そしてこれらの現象に対して、ネガティブな意味合いをこめて、「まるで宗教であり、だから危ない・おかしい」というように言われる場合も多いように思われる。

しかしながら、これは「二重の意味で」宗教に失礼である。

第一に、それが宗教あるいは宗教的なものであるとして、何か問題があろうか。たいていの人間には、何か宗教(のようなもの)が必要なのではないか。

第二に、それは宗教「ですらない」。

 

◆(1)宗教、のようなもの

──そもそもキャラというものは、何か目に見えない精霊のようなものに似ている。だから、形のないものの空虚な中心に向かって、懸命に内実を与えていく作業というのが、こうしたコンテンツの界隈ではいつも行われるのである。

自分にとって大事なもの・生き生きとして見えるもの(キャラクター、コンテンツ、等)が、形がなく空虚であるなどということは受け入れがたいことであって、そんはなずはない。そこで、さまざまな仕方で、その内実を充実させてしまわなければならない;

・フィギュア、グッズ等の「偶像」による具現化(=立体化)を通じて、執り行われる場合。 

・キャラクターソングなどのライブにおいて感じられることも、身体的な振る舞いによって、キャラの中身を実体として埋め合わせていくプロセスである。観客は中心のないものに向かって熱意・声援を送るという身体的な振る舞いを通じて、そこに本当にあるもの、具体的なものにしていくのである。

・しかしとりわけ重要なのは、ステージ上の出演者の振る舞い、とりわけ「声」というものを通じた、具現化である。 

それは、精霊のような存在に、その「声」を通じて肉体を与える存在である(=声優さん)。 

 

神崎蘭子のモチーフ

・・・と、このように言うと、なんだか蘭子語みたいだけれども、

「蘭子語」にみられるのも、宗教的なモチーフである。

もちろんそれは本当の宗教ではないし、単にそれらしい言葉を散りばめているだけ、なのであろうが、何かそのようなものへの憧れが背景にあるのは間違いない。

ゴスロリの「ゴシック」というのは言うまでもなくゴシック建築のゴシックであって、とうぜん宗教的な背景がある(高い天井・ステンドグラスの大きな窓・多声音楽による「崇高」な空間)。

歴史的背景、伝統、つまり、何か「重み」のあるもの、これらのものは、少しでも頼りになりそうであるから、そうしたものからモチーフだけでも借用するのである(あるいは、そうしたものへのロマン主義的憧れ)。 

神崎蘭子もまた、(何か少しでも頼りになりそうなものとしての)ゴシックに身を包み、それに支えられることで、どうにかここまでやってこれたのであろう(「私を守る繭であり鎧」)。

「現実の幼い私は、なにもできない、弱くて臆病な存在……。[・・・]

だから、いつしか、私は変わったの。

弱い自分を守るための、殻……それが、闇より生まれた、いまの私。[・・・以下略]」

(『デレステ』「ストーリーコミュ」第12話) 

「私を守る繭であり鎧……

漆黒の魔法衣(ゴシックドレス)をまとう場所よ……!」

(同前)

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◆否定の契機:市民的主体の浄化

また、このように蘭子が蘭子語を話し蘭子になりきること、あるいは現実の我々が蘭子などのキャラになろうとすること(コスプレ)、

あるいはまた、そこまでいかなくとも、キャラへと思い入れや感情移入を行うということ、

あるいはさらにまた、市民社会において(時に汚く)稼いだお金を崇高なキャラへと「お布施」すること、

これらの行為は、いまここにおける具体的な身体を備えた自分自身が、キャラへと同一化していくことで、その内実を充実させていこうとする営みであると言えるが、

同時にここには、自己犠牲、否定の契機が見出される。

 

この否定の契機を含む過程は、自分というものがキャラと同一化していき、やがて消滅していくような過程でもあって、それは、市民社会的主体としての、日常の馬鹿げた欲望や薄汚れたことでいっぱいになっている自分にとって、浄化作用のようなものをもたらすのではないかと思われる。

(例:多少汚く稼いだお金も、崇高なものへのお布施によって、手元から離れ、自分自身が浄化される。)

  

◆(2)「ロバ祭り」、あるいはそれ以下

とはいえもちろんこれらの宗教ふうの実践は、本当の宗教などではないであろう。

 

宗教的なものが何か必要だけれども、本当の宗教にも耐えられないような(私のような)「弱い人間」が、

ギリギリのところでなんとか見つけた、宗教に似た何かであろう。

 

しょせんは「ロバ祭り」*1、いや、ロバ祭り以下の何かだろう。

 

・・・とはいえ、それで今日もなんとか生きていけるのだから、そんなに馬鹿にしたものでもない。少なくとも「有益」なものであろう。

現代において、本当の宗教を信じることもできず、かと言って「超人」になることもできず、とはいえなにかそれらしいものを求めるひとにとって。

*1:Nietzsche, Zarathustra, 4.

Source: マンガ

 

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